コラム

【ホアキン・フェニックスの兄】伝説の俳優リヴァー・フェニックスは、かつて「笑っていいとも」に出演していた?

映画『スタンド・バイ・ミー』に出演していたリヴァー・フェニックスは、圧倒的なカリスマ力を誇るハリウッドスターでした。

しかし、23歳という若さで亡くなっています。その理由は何だったのでしょうか?

記事のポイント
  • 伝説の俳優「リヴァー・フェニックス」のキャリアを知ろう
  • リヴァー・フェニックスが「笑っていいとも」にゲスト出演していた

それではリヴァー・フェニックスのキャリアから振り返っていきましょう。

リヴァー・フェニックスのキャリア

リヴァー・フェニックスは1970年8月23日生まれ。アメリカ・オレゴン州出身です。

リヴァーの弟は、『ジョーカー』を演じたあのホアキン・フェニックスです。

リヴァー・フェニックスが俳優になったきっかけ

リヴァーの両親は、全米各地を放浪するヒッピーでした。

そのためリヴァーは4人の弟妹たちと旅を行い、自然と触れあいながら生活をしていました。

つまり、正式な学校教育を受けていません。

その後、両親が仕事を見つけた地であるロサンゼルスに、リヴァーは定住します。

転機は、兄妹で小遣い稼ぎのために、路上ミュージシャンをしていた時です。

偶然、通りかかった芸能関係者に、リヴァーはスカウトされたのです。

その結果、1982年に俳優デビューをしています。

こうして1986年、あの傑作『スタンド・バイ・ミー』のクリス役に抜擢されます。

本作は当初の「ヒットしないだろう」という予想を裏切り、大ヒットを果たしたのでした。

リヴァー・フェニックスがスターへ

リヴァーはそのまま、大スターの階段を駆け上ります。

その後、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』や『マイ・プライベート・アイダホ』など、次々と有名作に出演していきます。

リヴァー・フェニックスの死因とは?

順風満帆に見えた矢先に、悲劇が起こります。

それは1993年10月30日の夜のことでした。

恋人サマンサ・マシスや弟ホアキンらと、友人であるジョニー・デップの経営するクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム」へ行ったリヴァーは、入口付近で倒れてしまったのです。

リヴァーは、その時、急なオファーでバンドの演奏をすることになるのですが、途中で具合が悪くなり退場しています。

その後入り口付近でぐったりしているリヴァーをサマンサが発見し、弟のホアキンが急いで救急車を呼びます。

しかし、そのまま翌日の1993年10月31日早朝、リヴァーは「心不全」で、人生にピリオドを打ちます。

死因は、ヘロインとコカインの過剰摂取が原因だと診断されています。
享年は、23歳でした。

ただしリヴァー・フェニックスが本当に求めたものは薬物ではなく、あくまで音楽だったと周りからの証言で判明しています。

またリヴァーが亡くなった時、ジョニー・デップもクラブ内にいたのです。

「笑っていいとも」にゲスト出演するリヴァー・フェニックス

リヴァー・フェニックスは、1990年代以降のハリウッド若手スターとして俳優界に君臨していました。

リヴァーは紛れもなく、「成功した俳優のロールモデル」になっていたのです。

リヴァーの美しい容姿の中に潜む暗い影は、若者の孤独や屈折を体現したかのようでした。

俳優として類いまれなる才能を発揮していたリヴァーは、当時、トム・クルーズマイケル・J・フォックスが象徴であった映画界に、間違いなく変化をもたらしていきました。

その後、スターとなるレオナルド・ディカプリオも、リヴァーの影響を受けています。

俳優リヴァー・フェニックスは23年の短い生涯の中で、14作品に映画出演しています。

今なお、色あせない魅力が映画作品に集約されているのです。

その中でも映画『スタンド・バイ・ミー』は、傑作でしょう。

『スタンド・バイ・ミー』リヴァー演じる・クリスは、主人公ゴーディの親友であり、普段は乱暴であるものの、大事な場面では仲間想いの少年でありました。

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リヴァー・フェニックスはヴィーガン

リヴァー・フェニックスは映画『スタンド・バイ・ミー』(1986年)のプロモーションで、1987年4月に来日しています。

ジェームズ・ディーンの再来」との評判も相まって、大注目の中での来日でした。

しかし、リヴァーは性格がシャイであり、物静かな立ち振る舞いに終始します。

ジェームズ・ディーン(James Dean)は、24歳の若さでこの世を去った伝説的俳優です。

1931年2月8日 – 1955年9月30日という短い人生の中で、彼の存在は様々なカルチャーに大きな影響を与えました。

リヴァーは写真集を作った際、カメラマンや編集者の要求に対して一切「ノー」と言わなかったという逸話もあるくらいです。

しかし唯一「ノー」と言ったことがあります。

それは、食事のメニューに関してです。

子供の頃に動物と一緒に生活をしていた背景からか、リヴァーは「ヴィーガン」の食生活を行うようになりました。

そのため、そばのつゆが「カツオ」だしという理由から、リヴァーは箸を置いたのです。

ヴィーガンであるリヴァーは、お菓子の成分に含まれている動物性の素材すら避けていました。

リヴァー・フェニックスの幻の遺作『ダーク・ブラッド』

若くして亡くなったリヴァー・フェニックスですが、亡くなった1993年も映画の撮影が進んでいました。

映画『ダーク・ブラッド』です。

ただしリヴァー・フェニックスの死により、『ダーク・ブラッド』は製作が中止となってしまいます。

長い間、未完成のまま、闇に葬られた作品でした。

しかし、監督だったジョルジュ・シュルイツァーが大病にかかり、余命を宣告された際に、自身最後の作品として『ダーク・ブラッド』の再制作に取り掛かったのですす。

こうして2012年、遂に『ダーク・ブラッド』は完成します。

リヴァー・フェニックスの没後20年にあたる2013年に本映画は公開され、そのリヴァー・フェニックスのイメージを一新する内容に、高い評価を得た作品となりました。

リヴァー・フェニックスの死から、イーサンホークが学んだ教訓

イーサン・ホークは、ハリウッド映画のような大作にあまり出演していません。

その理由に、「最初の共演者が薬物を過剰摂取してサンセット・ブルーバードで亡くなってしまったから」と答えました。

この最初の共演者こそ、リヴァー・フェニックスでした。

イーサン・ホークは「リヴァーは眩しい光だった。でもこの業界は、彼を食い潰してしまった」と嘆きました。

イーサン自身がロサンゼルスに引っ越さない理由の一因もリヴァー・フェニックスの死にある、としています。

現在も、ハリウッドから距離を置くイーサン・ホークが学んだ教訓であります。

またイーサンはリヴァー・フェニックスだけでなく『その土曜日、7時58分』で共演していたフィリップ・シーモア・ホフマンも、薬物の過剰摂取で失っています。

まとめ

もしリヴァー・フェニックスが生きているならば、2020年8月に50歳を迎えていたはずです。

「汚れた」・「薄汚い」の意味を持つ90年代にロック音楽のジャンルの用語としてヒットした「グランジ(Grunge)」は、リヴァー・フェニックスの形容詞ともいえました。

スターの活躍をもっと観ていたかった。それが、正直な気持ちです。

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とけい
映画大好きライターの「とけい」です。